塩崎神社
について

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慶応元年(1865年)大新涯(福山市曙・新涯小学校学区)の海を食料増産のため農地とする大計画が立てられ、福山藩(阿部氏)が藩の命運をかけ、3年の歳月をかけ大新涯沖に大堤防(一文字堤防)を築き干拓地ができました。 当時の工事は困難を極め、神様のご加護を仰ぐ事とし、箕島の釜谷の大岩の上に汐止めの三神をお祀りされたのが塩崎神社の始まりです。

そして明治31年(1898年)に、新涯村誕生の時の村長であり、総代長である光成角次郎氏の敬神崇祖の念により、現在の地にお宮が移され、「八幡神社」「賀茂神社」「荒神社」を合わせお祀りし、氏神様とし地域の安泰・心の拠り所として、敬神の念を集めてまいりました。

昭和56年 敷地全体を一メートル嵩上げ

平成5年参集殿・鳥居を設ける。

今、私たちの住んでいる地域は、入植してこられた勇気ある先人たちの苦労によって、農地として発展し、現在の住みよい町へと変遷してきたのです。また、先人の皆様、現在お住いの皆様に見守られながら、大切にお世話頂き、地域の氏神様として御鎮座してまいりました。 歴代、明治より現在の宮司を含め9人の神官が任命されてまいりました。そして平成29年6月4日「塩崎神社御鎮座150年奉祝祭」を迎えることができました。

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新涯干拓にあたり、一文字堤防造成工事現場用の小屋(工事の道具を収納したり、働く人の休憩所)が今の茶山(幸崎山)の裾野に設けられました。これと同時に工事の安全を願って海の神様を祀ろうと、現在の唐樋の後ろの岩の上に小さな祠(ほこら)が祀られ、深津の塩﨑神社より分霊されました。

そして無事堤防完成の後、祠をそこに残しておいてはいけないということで、新涯の三つの村にそれぞれ「塩崎神社」を祀りました。その後村の統合などにより、明治31年(1891年)に現在の大きい塩崎神社になりました。この用地は阿部家他の土地を寄付していただいものです。

その時、新涯の三つの村にはそれぞれ八幡神社も祀られていたようで、塩崎神社と同様に一つになりました。

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この地域(現在の曙町・新涯町など)はとても広大な干拓工事によって出来た地域です。広島県内だけでなく、幕末までに日本国内でこれほど大きな地域を干拓した例はないそうです。干拓地は地名として「新涯」「新開」と呼ばれますが、俗称として大きな干拓地なので「大新涯」と呼ばれるようになったのではないでしょうか。

大新涯・地名の移り変わり

・慶応3年(1867年) 新涯汐止

・明治9年(1876年) 広島県深津郡新涯村

・明治31年(1898年) 広島県深安郡川口村字新涯

・大正5年(1916年) 福山市誕生

福山市に合併し、

・明治31年(1898年) 広島県福山市新涯町となる

・昭和44年(1969年) 新涯町のうち、曙町・一文字町が新設される

**曙町の名前の由来

昭和30年代、「日本鋼管」が福山に進出した際の区画整理で、昭和44年(1969年) 2月に「曙町」が誕生しました。「あけぼの」は新涯の東にあり朝日が早く昇る場所ということでこの名前がついたということです。工業団地化する前は、さぞかし綺麗な朝日が見えたことでしょう。

御祭神

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塩崎神社

住吉神すみのえのかみ
上筒之男命・中筒之男命
底筒之男命・大帯姫命

[ご利益]

水防・土地造成・海路安全
家庭、交通安全・商売事業繁栄

八幡神社(併殿)

応神天皇・仲哀天皇
神功皇后

[ご利益]

病魔退散・安産・子育て

賀茂神社(末社)

 
賀茂別雷命・玉依姫命
賀茂建角身命

[ご利益]

落雷除け(明治の頃、災害
が多かったため)

荒神社(末社)

奥津産霊命・奥津姫命
迦具土神

[ご利益]

流行病・火事・水害除け
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境内にある樹木は保護樹林に指定されています